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  「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したように、マルクスは人類史の発展法則を発見した」(エンゲルス)。…エンゲルスは「自然に法則があるように、社会にも法則がある」という。人間の感性的活動から外化したものとして「法則性」があるとし、これを社会へ適用しようとした。
 またエンゲルスは「生産諸力」を人間と人間の関係の有り様を除いて「生産手段の所有」の問題に一面化して理解することによって、生産力の発展の過程をそのまま「人間の発展の歴史」として肯定し、生産力主義に根拠を与えた。
 そもそも「自然科学の発展」の動機も、近代における資本制国家の階級支配の維持と、あくなき資本の価値増殖のためのものである。事実、それは労働者の機械への従属をはじめとした、新たな抑圧の強化となってあらわれてきた。

 こうした発想は、エンゲルスにとっても試論の一つだったのかも知れない。だがこれらを引き継いだ者たちは、「マルクス主義」の不動の教条に位置づけてしまった。

(補稿) エンゲルスについて

 マルクス主義は、社会的生産の発展は同時に被支配者階級の疎外の深化、支配・隷属関係の深化の歴史であることを鮮明にし、働くものの隷属・搾取―支配からの解放を「生産者の自由で平等な連合:Assoziation」、自由な自己労働の実現においている。

 ところで、一括りで語られる事の多いマルクスとエンゲルスであるが、一部ではその両者の考え方の違いについても多く指摘されてきた。特に冒頭挙げた点についてである。
 理論はとは生きたものであるから、意見の相違それ自身は当然であろう。最初から同じ考え方である方が変だし、時が経つにつれ発展することもあれば、一人の人間の中でも二律背反する考えを抱くことだってある。だがとりわけ晩年のエンゲルスには、そんな一般論ではすまない、後世の革命運動に大きな制約をもたらしたといいうる思想的レベルの限界があるのかも知れない。

⑥実はこうした限界は差別の根拠を「人間の内面」に求める誤りにも直結し、はては差別宿命論に行き着いてしまいます。これにはいろいろな潮流がみられますが、日共に端的な観念的階級一元論や、一見対極に見えるフーコー流の「内なる差別」の実体化も結局似たようなものです。この延長に、左派の一部(いや、むしろ多数派なのですが)にみられるような「差別の原因は差別されるものの存在」といった論理に帰結します。「お勉強によって差別はなくなる」という人々も大同小異ですね。
 こういう立場に立つと、差別は「永遠の歴史」を持っている事になってしまい、歴史を完全に逆転させて、「弱肉強食の人類社会の中で理性により人権思想を発達させ一歩一歩差別を解消してきた」などという進歩主義、単線的発達史観に立ち、結果的に現実の差別を免罪していく事になります。根本的な人間観がホッブズと変わらないのです。
もちろん、こうしたデマは歴史学や文化人類学の進展によって否定されつつあるのですが。

(sさんとのDMでのやり取りから引用)

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④ジョンロック認識論の「タブララサ」を想像すればわかりやすいと思います。人間の本質は「理性」なのですね。「知的障害者」はかつて日本語で「精神薄弱者」と呼ばれ、おおむね精神病院での「治療」対象でした。今は少し変わっていますが。

⑤ブルジョア市民社会の論理に規定された特殊な価値意識、したがって歴史貫通的な概念ではありえない「精神」「知識」なるものに依拠してしまうと、例え「反権力・反差別」を語っても大きな間違いが生じます。いわゆる「反知性主義批判」の言説、「安倍は漢字も書けない」「ネトウヨは知能が低い」といった差別発言がそれに当たります。結局、知識をひけらかしながら他人を支配する事を喜びとする連中です。こんな人間が一番嫌いです。

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③「知識」とは何か。言うまでもなく、それは初めから社会的協働であり歴史的所産であって、「個人」の内面(精神=理性)に所属するものでありません。ですが、すべてを「量的差異」=「人間の価値」に還元する近代的な価値意識のもとで、「知識の量=知的能力」なるものがあたかも個人に内在するかのような錯視が起こる事を前提に、その「知的能力」によって必然的に「無能者」として隔離され、なおかつそれが再び「質的差異」に転化し「異質な存在」として差別される事態が起きます。
本質的に言えば、現在「知的能力の差」と呼ばれているものは、社会的協働としての〈知識〉=情報を集積し運用する個体間の能力的差異に過ぎず、例えば教育の機会や脳の疾患・障害等によって生じた相対的ばらつきに他なりません。社会的共同(協働)を本質とする人類にとって本来大した意味はないのです(もちろん、この場合の「障害」概念についてもいったん認識主体の側を疑ってみるべきです)。
 「差別」規定はおいても「近代以前に差別はなかった」とまでは言いませんが、歴史を紐解くと現代人の思い込みと現実は随分違います。「障害者は神だった」というのは大体世界共通です。

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「精神病者」「知的障害者」とはなにか

①まず、大前提として「精神病者」「知的障害者」は社会的に(より厳密にいうと間主観的に)規定されるもので、一般化できるような「本質」はもともと存在しません。本来多様な〈個性〉に過ぎなかったものの間に、近代以降に発生したとある理由(これを説明すると長くなるので省略)により数値化された量的差異が持ち込まれ、それによって「標準・正常」な集団から競争関係の中で「分離」されることによって初めて成立しうる観念です。

②近代に生きる僕たちは、デカルト的心身二元論を暗黙の前提に「人間は肉体と精神で構成されている」かのような存在観を持ってしまってますが、むろんこれは誤りです。すべては関係性の所産であり、「精神」とはそれ自体が抽象であって、関係的・構造的な社会関係の物象化に過ぎない便宜的な観念と考えるべきと思います。

古代史放談
blog.livedoor.jp/artfront_ky-0
①序章
②白村江は百済の「レコンキスタ」
③天皇自身、アマテラスなど信じていない
④比売大神の正体
⑤ふたたび「序章」に返る oc.todon.fr/media/46RTTChwpi2W

まあ、向こうも復旧したし、今後このアカは元通り趣味アカとして運用していくから、いつでもいらしてください。

ビックリしたなあ。「キャラメルママ」にそんな理解があったとは知らなかった。マジで聞いたことがない。「親の立場、年上としての権威を嵩にして若い世代の行動・主張を圧殺する行為」くらいのイメージだったけど。
それにしても、ウィキの記述を高々と掲げてマウント取ろうとしてくる「左派」の存在にも驚きだけど。

みなさん、体には気を付けてください。

ビックリした!
アイコン変わったんですか。

この延長に、左派の一部(いや、むしろ多数派なのですが)にみられるような「差別の原因は差別されるものの存在」といった論理に帰結します。「お勉強によって差別はなくなる」という人々も大同小異ですね。
こういう立場に立つと、差別は「永遠の歴史」を持っている事になってしまい、歴史を完全に逆転させて、「弱肉強食の人類社会の中で理性により人権思想を発達させ一歩一歩差別を解消してきた」などという進歩主義、単線的発達史観に立ち、結果的に現実の差別を免罪していく事になります。根本的な人間観がホッブズと変わらないのです。
もちろん、こうしたデマは歴史学や文化人類学の進展によって否定されつつあるのですが。
(以下略)

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④ジョンロック認識論の「タブララサ」を想像すればわかりやすいと思います。人間の本質は「理性」なのですね。「知的障害者」はかつて日本語で「精神薄弱者」と呼ばれ、おおむね精神病院での「治療」対象でした。今は少し変わっていますが。
⑤ブルジョア市民社会の論理に規定された特殊な価値意識、したがって歴史貫通的な概念ではありえない「精神」「知識」なるものに依拠してしまうと、例え「反権力・反差別」を語っても大きな間違いが生じます。いわゆる「反知性主義批判」の言説、「安倍は漢字も書けない」「ネトウヨは知能が低い」といった差別発言がそれに当たります。結局、知識をひけらかしながら他人を支配する事を喜びとする連中です。こんな人間が一番嫌いです。
⑥実はこうした限界は差別の根拠を「人間の内面」に求める誤りにも直結し、はては差別宿命論に行き着いてしまいます。これにはいろいろな潮流がみられますが、日共に端的な観念的階級一元論や、一見対極に見えるフーコー流の「内なる差別」の実体化も結局似たようなものです。

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③「知識」とは何か。言うまでもなく、それは初めから社会的協働であり歴史的所産であって、「個人」の内面(精神=理性)に所属するものでありません。ですが、すべてを「量的差異」=「人間の価値」に還元する近代的な価値意識のもとで、「知識の量=知的能力」なるものがあたかも個人に内在するかのような錯視を前提に、その「知的能力」によって必然的に「無能者」として隔離され、なおかつそれが再び「質的差異」に転化し「異質な存在」として差別される事態が起きます。
本質的に言えば、現在「知的能力の差」と呼ばれているものは、社会的協働としての〈知識〉=情報を集積し運用する個体間の能力的差異に過ぎず、例えば教育の機会や脳の疾患・障害等によって生じた相対的ばらつきに他なりません。社会的共同(協働)を本質とする人類にとって本来大した意味はないのです(もちろん、この場合の「障害」についてもいったん認識主体の側を疑ってみるべきです)。「差別」規定はおいても「近代以前に差別はなかった」とまでは言いませんが、歴史を紐解くと現代人の思い込みと現実は随分違います。「障害者は神だった」という理解は大体世界共通です。

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以下は今朝あるFFに向けてDMで書いた差別主義者「spark」批判の一部です。
今の話題とは直接関係ないのですが、「質」を「量」に転化するメカニズムについて整理したいので、こちらの趣味アカに丸々コピーしておきます。フォロワーの皆さんはぜひ無視してください。

①まず、大前提として「精神病者」「知的障害者」は社会的に(より厳密にいうと間主観的に)規定されるもので、一般化できるような「本質」はもともと存在しません。本来多様な〈個性〉に過ぎなかったものの間に、近代以降に発生したとある理由(これを説明すると長くなるので省略)により数値化された量的差異が持ち込まれ、それによって「標準・正常」な集団から競争関係の中で「分離」されることによって初めて成立しうる観念です。
②近代に生きる僕たちは、デカルト的心身二元論を暗黙の前提に「人間は肉体と精神で構成されている」かのような存在観を持ってしまってますが、むろんこれは誤りです。すべては関係性の所産であり、「精神」とはそれ自体が抽象であって、関係的・構造的な社会関係の物象化に過ぎない便宜的な観念と考えるべきと思います。

差別問題を「程度の問題」とか言い出した時点でもう論外だよ。
yuukiといいこぐまといい、絵に描いたようなブルジョア思想だ。

「何が気持ち悪いのか明確に整理できてないけど」
「とりあえず気持ち悪い」
「ずっと気持ち悪がっているんだが何が気持ち悪いのか自分で説明できない 誰かわかる?他人との距離が近すぎるからかな…」
「あーキモいキモい」
By タルボット

…これは「生理感覚」で他人をいたぶってきた人間だな。
クラスに2~3人はいたね、こういうタイプの人。

「傍から見てても気持ち悪いのに、もし万が一自分がやられたら気持ち悪すぎて自分の皮膚を剥ぎたくなるかもしれない」

…とっとと剥いでもらおうじゃないか。

差別主義者ばっかりRTしているから最初からノーマークだったし、よく考えたらいつブロックされたのかわからないけどね、こんな「アルムおんじ」みたいなやつ、どうでもいいよ。

いつの間にかタルボットにブロックされてました。

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